一喜一憂

最近、またディサービスへ行きたがらない母。

毎朝、7時にリビングの暖房をつけてベッドの母へ声をかけ、ゴミ出したり朝食作ったりしつつ、部屋が温まった40分頃に母を丸め込んで起こし、オムツを替え、車椅子へ移乗。

薬を飲ませて、母が朝食を食べてる間にわたしが身支度。

目を離すと食事で遊び出したり、テレビに見入って食べない母に食事続行させながら、母の髪をとかす。

 

食事を終えると間髪入れず車椅子を食卓から離し、上着とマスク着用。車椅子のまま靴を履かせ、玄関の段差を下ろし、ディサービスの迎車に間に合わす。

 

その間に「眠い」「いく場所(ベッド)があるの」とふらふら車椅子から立ち上がる母を制し、気分を上げ続ける。

送り出すとドッと疲れる、朝8時半。

 

とはいえ、ディ帰宅後はキレッキレに覚醒しており、土曜日は、

母「踊らないと!」

「踊り‥。なんの‥?いや踊っていいですけど‥」

母「踊るの!」

ディサービスで踊って来たのかな??

テレビ見てても「踊り‥」「ほら踊り!」

これはこれで、急に車椅子から立ち上がるから目が離せない。そう言う時は足腰もやたら力強い。

 

「踊っていいよ!ほーらどうぞ」

こちらがノリノリで車椅子に手を差し伸べると「‥それは、いいや」と一瞬鎮静することを学んだ最近。

以下繰り返し10回とかだから、精神力を使う。 

そして、わたしが張り付いてられる時しか使えない。

 

この興奮スイッチが、わたしが仕事中に母が1人の時に入ると転倒徘徊が怖くて、仕事中もディ帰宅後はソワソワしてしまう本末転倒。

 

 

変わって、予定がない日曜日。

わたしが14時まで仕事中、母はずっと爆睡してた。

仕事中、母のお昼を食べさせるため抜け出したら、まだ高鼾。

(朝食後、わたしの仕事前に車椅子でうたた寝してたから、ベッドに運んで寝かせてた)

「おかーさん、お昼いらないの?わたしすぐ仕事戻っちゃうよ?」

起こすも覚醒せず。。正直、わたしが不在時は寝ていてくれた方が安心である。

14時過ぎに仕事を終え、母を起こしてオムツを替える。

母「あら、〇〇(わたし)。いつ起きて来たの?」

「よく寝たね。もう15時だからね。わたしは仕事終わって戻って来たの。これからお昼ご飯」

母「ええー。で、いつ起きたの?」

ポツポツ会話しながら、

いつまでこんな風に母と過ごせるのかな。

と考える。

神経削る毎日もキツい。でも何気ない日常のひと時を過ごせなくなるのも辛い。

 

秋の気候が良い時期、夕方不穏を防ぐため、仕事がなければ17時前後に母を車椅子に乗せ、買い物に行くようにしてた。

秋の夜空と、母の丸くて白い後頭部。

そのコントラストを見ながら、

いつまでこんな風に母と過ごせるのかな。

と考えてた癖が抜けない。

 

そんな先程、夕食を食べさせて、手引きで洗面所に連れて行き(身体機能を残すため、極力歩かせる)、歯を磨き、手引きでベッドに戻し、オムツと着替えをして‥

「もうちょっとこっちにお尻ついて〜!お、いいね!いい位置!」

介護ベッドに寝かせる時、被介護者が「尻をついた位置」が非常に重要であることは父で学習済み。

(足よりに尻をつくと、仰臥してから位置調整がとても大変。ベスポジに尻をつけば、コロンと寝るだけで頭が枕に着地する)

今日の母は、ベスポジに尻をついて、完璧なポジショニングになった。

「わー!すごい!わたし達だいぶ慣れて来た!!」

こういう些細なことが嬉しい認知症介護。喜ぶわたしに母が、

母「わたし達?わたし(母)じゃなく、'わたし達'って言ってくれてありがとう!」

 

こういう一言に泣ける。

つい10分前は、わたしがあーんして母に食事させてたら、「大したもんは口に入って来ないね」と毒付いてたから、いちいち泣けるわたしがチョロいだけかもしれないけど。(だから介護背負う羽目に‥

 

そういえば、先日母の親友達が遊びに来た時、わたしのことを「お母さん」と呼ぶ母に、

友達「やだ!あなたのお母さん(わたしの祖母)、あなたを介護なんか絶対しないタイプだったわよ!」

ぶった斬ってたw

 

母は祖母を介護する気だったらしいが自死してしまった。

母は父を介護する気だったが、自分が先に高次脳機能障害認知症になってしまった。

父は自分の親の介護は妹に託し、自分は母に介護される気だったが、母の変化を受け入れられなかった。

 

で、わたしは父母ふたりを介護。

 

こう言う「介護する人、しない人」ってどこで分岐するのかなー。

介護したら幸せなれるわけではないことは、連日の介護殺人ニュースを見ればよくわかるし、なんの差があるのかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アルツハイマー新薬

本日、М先生の往診日。

先月在宅初診はバタバタしてて、前回はわたしが仕事で会えなかったけど、今日はゆっくり話せた。必然的に父の話に。

 

М先生とは、2010年の母の脳卒中時から13年の付き合い。

この5~6年、脚が悪い父は外出を嫌がり、わたしが母の通院に付き添い続けていた。

よって先生が知ってるのは13年~6年ほど昔の、ゴルフ話で盛り上がってた父。

先日、施設で撮った父の写真を見せた。

 

先生「変わりましたねぇ…。僕も年を取るはずですよ…」

「変わりました?顔が?あ、痩せたから??」

ずっと見てるから、もはや「変わった」と言われても分からないけど、13~6年前は父も70代。そりゃあ変わったか。

介護してるとナチュラルに「70代?若い!!!」と思ってしまう。

 

先生「いやだって、前は思わなかったけど、こうして今のお父さん見ると、娘さんとお父さん、顔が似てるなって思いますもん」

「先生、それどういう意味で言ってます?」

どういう意味?????

 

先生「いやいやいや…。でもねぇ、非常に細かいことまで訊いてくるクレバーなお父さんで…」

ああ、そういえば父は元々細かいタイプだったな~。

 

母の急性期、大学病院へ転院するコネを掴み「まずは大学病院の医師に逢って、よさそうならお母さんを転院させる。お父さんも行く?」と父を誘ったわたし。

が、父は熟考し続け腰が重い重い。

「大学病院なんだから、急性期に移動しなきゃ意味ないじゃん!わたし1人で先生に会ってくる」

父「いや待て。俺はあらゆる可能性を検討した上で動きたいんだ!」

「可能性を検討するために、大学病院の話を聴くんでしょうが!」

思考回路が真逆だ!と実感したから、今もよく覚えてる。

もちろんわたしは、父を引きずって大学病院に行き、検討の上でМ先生の治療を選んで今がある。

 

なぜ転院させたかったかと言えば、母がICUにいた時、

М先生「回復は無理でしょう。排泄は自力でできないでしょうし、おそらく寝た切り。食事も自分で摂れるかどうか。覚悟してください」

「でも、希望は0ではないですよね?」

と押し問答を繰り返し、М先生が大嫌いだったから。

(当時のわたしは、脳外急性期のセオリーを知らなかった…)

そのМ先生とこんなに長い付き合いになり、13年目の今年、先生が独立開業を言い出し、往診を頼み込む関係になるとは。

 

こういうパターンは少ないようで、指示書を受ける訪看さんたちにも、

「娘さん有言実行ですね…すごい」

と感心されるけど、父と違ってわたしはすべて勘。

 

そんなМ先生、

「僕も開業にあたって認知症を勉強してるんですよ」

と言ってたけど、さすが脳外。

精神科や脳神経内科とは微妙に切り口が違う。

話題のアルツハイマー新薬「レカネマブ」の詳細をかみ砕いて教えてくれた。

 

アルツハイマー認知症は、脳にアミロイドベータが蓄積することにより起きる。

レカネマブはそのアミロイドベータを取り除くらしい。

が、すでに壊れた脳神経細胞は回復できない。副作用として脳出血もある。

ゆえに投与後は、頻繁なMRI撮影が必要ならしい。

ふーん?

母は脳卒中前後は脳梗塞が頻発してる。脳出血…逆だからイケる?いや、そんな簡単じゃないか。

 

先生いわく、

両親が認知症だったりして自分に不安がある富裕層は、ペット検査(自費20万ほど)でアミロイドベータの蓄積を検査し、もしすでに蓄積していたら、早期にレカネマブ投与して認知症を防ぐ手段もあるだろうと。

ペット、昨年父の検査で通ったけど、自費だと20万なのか…。

 

そんな先生のクリニックのMRIは、アルツハイマー特有の海馬萎縮などがわかるソフトが入ってるそうだ。

一般のMRIより微細な萎縮が分かるんだろうな。

М先生「50代以上だったら検査できますよ」

先生、わたしに言ってる???

「でも、ペット検査でアミロイドベータの蓄積が発見出来ても、海馬萎縮が早期発見できても、50代からレカネマブ投与しMRI撮って予防できる富裕層じゃなければ、そんなの知らない方がいいかもですよ」

М先生「そうですねぇ。その場合は…脳トレ頑張るしかないですね~」

さらっと言う。

今までの母の認知症医(精神科)と視点が違い過ぎて、いつも面白いなぁと思う。

 

 

先月の初診時は、母の足腰が全く立たなかった。

この1か月は、多少立つようになった(だから徘徊、転倒危機が増えるけど)。

今ならタクシー移乗できそうなので、1月にクリニックへMRIを撮りに連れていくことにした。

魔の2月(22年2月は父を救急搬送、23年2月は母を救急搬送)前に、やるべきことをやっておきたい。これも勘。

 

 

母の言葉書き起こし 12月11日12日

昨日、寝かしつけ後に鼾をかいて寝てた母が、またガサガサしていた。

仕事場から駆け付けると、暗闇の中でベッドに座る母。

母「○○~(兄の名)?」

「いや、△(わたしの名)だよ」

母「あら、△だったのね。お母さんね、2階のおばあちゃんに話に行かなくちゃ」

「やだぁ。この家は○○(母の名)と△(わたしの名)2人暮らしだよ」

母「でも、おばあちゃんに相談があるの」

 

祖母のことを「お母さん」ではなく「おばあちゃん」と言うのは珍しい。ましてや「相談」とは…斬新。

認知症不穏は「不安にさせない」ように対処を心がける。

わたしも暗闇に座り込み「相談って何?」と話を聴き始めた。

 

途中から、動画を廻した。

亡くなった後「声が恋しくなる。写真だけじゃなく声を残しておけばよかった」とよく聴くから、機会があれば録りたいなと思ってた。

その程度だったんだけど、意外と含蓄深かった。今の状況の隠喩的というか…

以下、母の名○○。わたし△。

 

母「あれは…そんな重荷を背終わされるなんて、思わなかったでしょ」

「なに?なんの重荷?」

重荷と言えば、今のわたしにとっては父と母の介護は「背負わされてる感」があるけど。父の入所以降、それを口にしたことはない。

母「なんて言うんだろう。△が背負わされる重荷が、夢にも思わなかった…。△が、えーってびっくしちゃって、それを背負えなかった場合ね、あとは…」

「なにを背負うの?」

母「ね?わたしもよくわかんないんだけど」

「背負えるかどうかはほら、荷物を聴いてみないと」

母的に何をイメージしてるのか。父か?

母は元々「パパ(父)の介護する気満々」だった。まさか母の方が脳卒中で倒れるとは本人も無念だったろう。

または「おばあちゃん」が出てくるなら、祖母から母が受け継いだ土地や家の話なのか、そこに父母の介護も含めてるのか、まったく別の話なのか、聴いてみたかった。

「○○さんは、わたしに何を背負ってほしいの?」

母「男の子の、当然背負うものではないものを背負ってほしいの。女の子の背負う重荷をね、どんなものというというか言うと…」

「なんだろ?」母「なんだろ?」「聴きたいわ」

母「なんだろうな、背負ってみてこれは背負いたかったと思うようないいものではないのよ。それが」

「なんだろうな」

母「間違っても、背負わされちゃったら困るわって言う…」

母「それはなんなんだろうね」「なんだろうね」

「それを、おばあちゃんに相談したかったの?でも、この家は○○と△しかいないの。○○さんが背負えばいいんじゃないの?」

母「それはねぇ、背負えないの」「背負えないの?重いの?」

母「重いの。ちょっと重すぎるの。じゃないかなぁ~と思ってるの。…意外と身軽にね、あ、いいよいいよって言うかもしんないな」

「誰が?○○さんが?△が?」母「△が」「うん、そうだね」

母「ねぇ。だからいいか」

「背負う物が何か?は聴きたいけどね」

母「物はなんだろ?そういうことなんだから…うーん。この家にはいるはずだからっていうことなんだけど」

「え。物?いるものを背負うの?」母「いる人が背負うの」

「あ、いる人が背負うの?じゃあ○○さんか△しかいないねぇ。○○さんが背負わないならわたしが背負うよ」

ってか、とっくに全部背負ってる感があるけど…。不穏には安心を与えねばならない。

母「あ、申し訳ないねぇ。じゃあ何を背負うか、△の代理を務めるかもしれない。考えてもらおう」

「△の代理?」母「そう△の代理になる、彼女のね」

「お、登場人物増えた?」母「登場人物増えた…」

「この家、○○さんと△しかいないよ」

母「そう、もしね、わたしがどうしても出来なかったら…」

「〇〇さんが出来なかったら△がやるでしょうよ」

母「あ。そうそうそうそう。だからまぁ一応ね、やってもらえるかどうか…」

「やるよ」

母「じゃあ△の意見を聴いてみようと思うの」

「△はわたしよ」

母「そう、出来る、かもしれないからね」

「出来るじゃない。やるしかないならやるよ」

重い重い重圧を、わたしはもう背負い続けてるけども、母は心のどこかで未だ「自分がなんとかしなきゃいけない責任」を感じる部分が残ってたのかな。

普段の様子からは全く垣間見えないけど…。

母「あっ、じゃあ。でも、もしどうしてもそれは困った、それはやりたくないってことだったら考えるよ?一生懸命」

母のこういうところに、いつも泣ける。母はずっと一生懸命で努力家だった。もう頑張らなくていいよ。

 

脳卒中にさえならなければ、今頃わたしと「お父さんの面会行く~?」「ええ、せっかく旦那から自由になったのに?」なんて軽口叩いてたはず。

本人も父を介護し終え、残りはわたしと自由に過ごす老後を望んでたのになぁ。

 

「え、いいよ。そんなん考えるの大変じゃん。やるだけやってみるよ」

母「え~じゃあ、お母さんも気が楽になった!やるだけやってみる…」

「そらそうでしょ。2人しかいないんだから、やるだけやるよ。安心した?」

母「うん安心した。もし、どうしてもだめだったら、やめる…。なん、なにか、ママがどうしてもやることが出来るように努力してみる」

母は責任感が強すぎて、認知症になってしまったのではないか。そう思う片鱗を自宅でよく見つける。

「そうね。困ったときは少し手伝って。基本的にはわたしがやるから大丈夫」

母「じゃあお願いね。よかったぁ~」

「はい了解よ~。なんの心配もいらないでしょ」

母「ああ、そうだねぇ。ホントにそれを頼めたらママも助かっちゃうよ」

「それはよかった。頼まれてあげるから」

母「あ、そうか、ほーんとに頼める?いいかもしれない。もしかしてアレをやったおかげで、こういうことが出来るようになったってことがあるかもしれない」

「そうだね、多分、それはあるかもしれない」

オムツとか…排泄処理とか…もう動じないですし(笑)

いやそれだけじゃない。認知症介護で出来るようになったこと、沢山あるよ。

母「まぁ、とってもアテにしてやってもらうように、仕向けちゃうかもしれない」

「アテにしていいよ、それはわたしが任されるから安心して」

母「はいお願いします」

「はい、安心できたかな?」

母「出来たよ~!大安心だよそれは」

「じゃあ、そろそろちゃんと眠くなってきたかな?」

母「眠くなってきたかな~?」

「今、寝てる途中だからね」

母「ママも眠くなってきたぁ~」

「よかったわぁ~」

 

全部録画・録音できた。

先々、コレ聴いて号泣しそう。聴けないかもしれないから文字起こししておく。

 

 

と思った本日。

寝かしつけたら、また暗闇の中で隠喩的なことを言い出した。今日は録画しなかったけど。

母「大変なの。大変なことが」「なになに?」

母「ずぶずぶと沈んでる人がいるの」

父の体調のことかな??リクライニング式車椅子で沈んでいるように見えなくもない。

「誰?」「ほら、あれ、あの人…」「お父さん?」「違うの」

「じゃあいいじゃん。知らない人が沈んでても問題ないよ」

母「知らない人じゃないの。だから困るの」

ほぉほぉ。まぁとりあえず、安心させねば。

「沈んでる人がいても、本人はそれで満足してるかもしれないじゃん」

母「そう?そうなの?」

「本人が浮かぶ気になれば助けれらるけど、本人が沈んでてもいいやって思ってるなら、他人が出来ることはなにもないよ」

母「そうかしらねぇ。そうかもねぇ」

「その人は好きで沈んでるの。お母さんが心配してもしょうがないよ」

母「ならいいか。よかったぁ~」

 

この2日、母はなかなか意味深いことを言う。

元々、妙に予見的なことを言う人だから、後々「なるほど!」と合点出来る言葉になる気がする。

 

でもこれ、連日続いたらどうしよう。。。

 

 

認知症の易刺激性

一時期より足腰の力が戻ってきた母。よかった。

が、昨夜からまた不穏徘徊がキッツい。

また階段突破を試みた。以前なら「階段昇降リピート→歩けなくなる」パターン。

まだかろうじてお高い突っ張り棒が頑張ってガードしてくれてるけど。

 

認知症介護者泣かせは常同行動。1回2回で済むなら徘徊もニコニコ付き合える。

でもそうじゃないんだよね。

宥めすかし工夫を凝らし、落ち着かせた直後にまた始まる。以下延々と繰り返す。ここにメンタルも時間も削られる。

 

もう1つ謎な症状は、易刺激。

父はテレビチューナーに貼られたメーカーの偏光シールに固執してた。

気になって気になって、シールの側に行くために歩き出し転倒、オムツ外し、床に排泄。以下リピート。

わたしが「テレビじゃなく、シールが原因か!」と気づくまで時間がかかった。

後からシールを隠しても、固執は解除できなかった。

 

母は蛍光灯以外の室内灯に反応する。

2階で寝起きしてた時は、母を就寝させた後は家中の電気を消してた。(光に向かって徘徊するから)

1ヶ月前、リビングに介護ベッドを移動した時は、2階の環境と同じく「窓の外が見えるように」家具を解体し、窓際にベッドを配置した。

母がベッドに寝て右を向けば窓と外の景色。

左を向けば、部屋の反対のすりガラス張りのリビングドア。

リビングドアの先は廊下と玄関。玄関ドアの左右にはすりガラスがある。

 

盲点だったが、自宅前の人や車通りが玄関ドアにチラチラ映り、さらにリビングドアのガラスにも映る。

そのチラチラする刺激に、母が固執しはじめたのはベッド降ろしてからすぐ。

「ねぇ、なんかいる!」「ネズミ(反射)がいる!」

右(窓の外)ではなく、左を向いて妄想が加速する母。

往来の行き来→玄関のすりガラス→玄関廊下→リビングすりガラス→リビング室内→ベッドの母

この刺激は予想できなかったよ…。泣ける。

 

リビングドアの外は玄関と階段。屋外徘徊か階段転倒ルート。

「ドアをガラスがないものに替える?」

と思い詰めた2週間前。

その後は落ち着いてたけど、昨夜からまた始まった。昨夜は1時間半、リビングドアに映る影に反応→ドアを出て階段にチャレンジし続けた。

 

今朝は、昨日のせいか足腰の調子が悪い。

起こして朝食を食べさせてると、お茶を吹き出した。全身を着替えさせた後、

「眠い」と言うので、またベッドに寝かせて仕事場にいると、

プチプチプチプチ‥

母がベッドから落ちたり、転倒した時に怪我しないように家具の角にはプチプチをつけてる。

これがセンサー替わりになり、プチプチ音で昨夜も駆けつけた。

プチプチプチプチ‥

仕事場から覗くと母が起き上がり、リビングドアをガン見してる。またかぁ…。

 

母「ねぇ、あれ、あそこ行かなきゃ」

「あれは玄関の外が映ってるだけだよ」

ドアを凝視しながら立ち上がり、よろめく母を支えてドアまで連れて行く。

ズボンに盛大な尿。最近、尿量が増えたのか、替えても替えても衣類を汚す。

 

母を掴まらせて立ったままオムツとズボンを替え、ベッドを掃除。

ベッドに座らせジュース飲ませる間も、リビングドアを凝視。

 

母「ねぇ〇〇(わたし)は目がいいかしら。あそこのあれがよく見えないの」

「うーん、あれは玄関外の道の動きだからね。目が良くても見えないよ。お母さんこっち(ベッドに沿う窓)見てよ。空がよく見えるよ」

母「そっちはよく見えないからいい」

うう…家具を解体してまで窓際にベッドを置いたのに、泣ける…。

 

で、今再び、

プチプチプチプチ‥バリバリ

また母がベッドに座り、ベッドサイドのテーブルのプチプチを剥がしてる。

「それ、お母さんが怪我しないためのものだから、剥がさないであげて」

 

見るとベッドにシミ。また漏れてる…なぜだ…

ベタベタ尿を触る母を制しつつ、外したオムツを観察。

尿量は多いけど、ズボン汚すほどじゃない。

わたしのパッドの付け方が悪いのか?今更!?

また母の服を脱がしてオムツを替え…だんだん脳みそがスカスカしてくる。

 

 

 

今日は、わたしがいるから良かったけど‥

以前は朝~午前中の活動性は低く、夕方から過活動の傾向が強かった母。  

この数ヶ月は、今日のように朝から午前中も不穏が強い日がままある。

 

と言って、夕方落ち着くかというと、数日前は母の様子を見に16時頃に仕事場から抜けたわたしの目に、自宅玄関から出ようとしてる母が飛び込んできた。(言葉にならない悲鳴)

 

昨日は15時半に母の様子を見に戻り、16時15分から1時間訪看、18時前に仕事終えて戻ったら、まぁ落ちついてた。が、夜中に徘徊した。

もう全然わからん。

 

「月?満月のサイクルかな?」

月と連動してるかも!と閃いた。こういう時、ブログ書いてると便利。

ムーンカレンダーとブログ記事を照らしてみるも、残念ながら合致せず!

 

 

母の誕生日

今日は母の85歳の誕生日だった。

兄に母の車椅子を押してもらい、わたしは父への差し入れを持ち3人で施設面会へ。

 

昨日、仲良しのヘルパーさんに「明日、〇〇さん(母の名前)誕生日なんだよねー」と言ったら、

ヘルパーさん「え〜お母さん何月何日生まれ?」

母「え〜4月?」

4月は兄とわたしの誕生日w

でも今日、父に「今日は11月26日。何の日?」と聞いたら、母がすかさず「わたしの誕生日!」と言った。すごい。

 

父は現在も嚥下に問題がある。

特養に事前確認した時も「お母さん誕生日ですか!ケーキの持ち込みは‥すごくしっとりしたもので、水分と一緒なら‥」と言う反応だった。

「水分て‥水分じゃないですよね?」

特養相談員Oさん「ですね!トロミ入りです!」

トロミ入りかぁ‥。

「じゃあプリン系にします」

というやりとりが事前にあった。

 

この飲食形態が非常に難しい。

来月、父のリンパ転移診断のためにT病院へ連れて行く予定だが、外来初受診はめちゃ待つらしい。

かつて医大の付き添い時も、毎回待ち時間が長く(予約入れてるのに)、帰りたがる父にオヤツやコーヒーを与えて気を紛らせたけど、今回はそう簡単ではない。

ネット検索したら、トロミ剤も適量があるようで、わたしがペットボトルに適当に突っ込んだらダメらしい。

ネットでトロミ入り飲料を買い持参した方がいいかなぁ。

と考えていたので、今日も水分は却下せざるを得なかった。

 

 

父担当Cさん「最近、咽せは減ったんですが、あまり食欲ないようで。食事を口に運んでも、いらないと言うことが増えまして‥」

「そういえば去年も秋は食べなかったなぁ。年末にかけてものすごく食べ始めてびっくりしたけど。甘いものはどうです?」

父担当Cさん「それは食べます!」

毎回、父には大量なプリンやゼリーを差し入れる。無駄にならず良かった‥。

今日は差し入れのほかに、ケーキ替わりの杏仁プリンを父と母に渡した。

一口目をわたしが食べさせたら、父は目を輝かせて自分で完食。やはり甘い物はいつでも好きらしい。

咽せが減ったのは朗報だから、甘い物で食欲増進して喉の筋力鍛えるしかないのかもな。

 

https://chika05.hatenablog.com/entry/2023/11/18/113101

 

そんな父に学友の話をした。思い出したような思い出さないような反応だったけど、

このブログ見ながら(わたしがすでに忘れてる)、学友から父への賞賛を伝えたら、めちゃくちゃ嬉しそうだった。

「で、お父さんはお母さんのことが大好きだったらしいよ」

母「えーわたしぃ?」

ニヤニヤする父。ニヤニヤする母。

最近立て続けに、2010年から父も母も知ってる脳外科のM先生や、父の妹(叔母)から、

「本人達は幸せだよね。支える側は大変だけど」

と言われ、まぁなんだかんだ幸せな余生なのかな‥と思い始めてる。わたしは大変だけどね‥87歳と85歳まで一緒に過ごせる(死別生別せず、老々介護にもならず一緒にニヤニヤできる)夫婦は多くはないと思うから。

老々介護‥?

一瞬、糞尿まみれの家の中に、糞尿まみれの父と母がいるイメージしてしまった‥。いや父が2018年、尿管つけて前立腺癌自宅療養はじめた時点で老々は無理なんだけど、怖い。

 

 

ところで昨日、役所の高齢者福祉課から手紙が来た。

わたしが書いた「介護サービスへの感謝メッセージが、入選は逃したけど冊子に採用される」的な報告。

 

よく行政が「介護職離れ」を止めるために「利用者や介護家族から感謝のメッセージ」を募ってる。

ケアマネさんから「娘さん、書くの早いからお願いします~」と頼まれた1つが選ばれたらしい。

ディサービス、特養&ショートスティ、訪問ヘルパー、訪問看護、介護用品…

フルコンボで契約してる介護サービスの中で「特養(とショートスティ)」に向けて書いた感謝文だった。

多分、初夏に書いたやつ。

 

父は誤嚥性肺炎で危篤から入院中。まだ特養に戻れるか定かではなかった。

が、搬送時に特養から看護師さんつきで運ばれて、「危篤」の言葉を一緒に聴いてくれた。あの時の心強さは忘れない。

母はショートスティ中に職員さん殴ったり、死ぬって騒いだりが収まり、やっと施設にお泊まりすることに慣れはじめた頃。

「母の乱行を笑って受け入れてくれて(暴力暴言、自殺仄めかしは帰宅を促す施設が多い)ありがとう!脱衣が激しい父を受け入れてくれてありがとう!父も母も引き続きお願いします!」

とOさんやTさんの個人名を入れ書き始めたら、10分で400文字×5枚の量になり、400字に減らすのが大変だった。

 

冊子では個人名は消されるけど、施設名はしっかり掲載されるらしい。施設内なら誰が名指しされてるか分かるだろう。

少しは施設や、お世話になってる職員さんに恩返しできただろうか。

利用家族の感謝の気持ちは、巡って利用中の高齢者(父や母含む)に還元されると信じてるけど、声を上げないと伝わらないもんね。

 

父のリンパ節転移と母の便

先ほど、母の訪問看護師さんと打ち合わせ中に、父の特養医務室から電話。

母を訪看さんに任せ、電話に出る。

 

また脱いだか?それとも誤嚥か?ドキドキだったけど、「父、みぞおち辺りの腫れが引かない」とのこと。

看護師「リンパ節転移の腫れだと思います。なので一度診断を‥いや、リンパ節転移とは断言できませんが、リンパ転移の可能性が高いかと」

 

父が昨年8月まで通ってたのは医大泌尿器科前立腺がん)。

認知症大ブレイクで床に転倒、排泄撒き散らし続け、本人も車椅子で座位を保持できず通院も出来ない。

その時は「認知症>>前立腺ガン」その後、在宅医療に切り替えた。

 

今年5月に特養から誤嚥性肺炎で近所の救急病院へ入院。

その救急病院で「腎臓ガン」「リンパ節転移」の診断。でも、なにせ肺炎で危篤状態だったから「誤嚥性肺炎>>ガン」。

「詳細な検査や、抗がん剤治療に耐える体力はなし」として、それ以上はしなかった。

 

看護師「娘さんお1人で、お母さんの介護も大変ですし、急がないですけどね!よかったら一度検査されてもいいのかなと‥」

間断ない両親の介護状況の変化に追われ、わたしが1人で追い立てられてることもよーく知ってる施設。

だから、言い回しが婉曲。

「というか、施設的にどうなんですか?検査した方がいいですか?単に腫瘍が出来たというお知らせなのか、どっちです?」

看護師「それはもう、リンパ節転移とわかった上で、経過観察できた方が安心ですよ~」

で~す~よ~ね~。

多分、わたしに告げず、腫瘍の様子を大分見てくれたんだろうな。

 

「じゃ、診断に連れて行きます。家族が病院予約して、介護タクシー手配して連れて行くってことですよね」

看護師「そうです〜本当に娘さんのご無理がない時で大丈夫ですから」

今月、母の方のショートスティ抽選落ちしてる。

だから「ご無理しかない」のは分かった上での連絡かなぁ。

どんな腫瘍なんだろう。ロビーでしか面会出来ないから、服の下は見てなかった。

 

いつまで特養で暮らせるか分からないけど、少しでも長く今の生活‥父がご機嫌で、母とも頻繁に会える‥を続けるには、施設がやりやすいよう協力するしかない。

 

だがしかし。どの病院に行けばいいの?

 

看護師「前立腺がんの大学病院では?」

医大前立腺がんの治療で泌尿器科で、リンパ節転移は今年施設から入院した救急病院で診断されたんですよね。今回はリンパ転移を調べるわけで、1年以上行ってない医大泌尿器科行っても‥」

 

元をただせば2018年の前立腺がんの宣告時から「タチが悪い。腎臓・膀胱・骨・リンパへの転移の恐れ」と言われ続けて来た。

昨年5月は骨転移を疑い2度目の「骨シンチ」を撮影してるが、「転移」の明言はなかった。

「でも抗がん剤変えるってことは、転移してるんですか?してないんですか?」

と突っ込んだら、なんとも言えない返答だったんだよな。

(今の段階で「転移してる」と明言は出来ないけど、数か月後なら「転移してる」と診断できる状態なのかな?)

と思ったことは覚えてる。

 

看護師「じゃあ5月入院した救急病院ですかねぇ?でも前回は肺炎で入院してるから循環器内科ですし、リンパ節転移って何科…?」

看護師も迷う状況だよね~。

これを素人のわたしが1人で背負って、親の健康と命に係わる選択と決断を継続的にし続けるのがしんどい。

「いやいいです。とりあえず救急病院が対応してくれるのか、電話して聴いてみます」

 

 

そんな話を、母を浣腸してる訪看さん(父のこともよく知ってる)にも伝えた。

訪看「確かに、その場合…何科だろう????」

ネットで調べると、リンパ転移は「血液内科」「腫瘍内科」???救急病院にはないんだけどいいのかな?

 

施設が提携してる病院は2つある。

近いのは5月~8月で入院してた救急病院。

でも、前立腺がんや腎臓がんで、バルーンつけることになると救急病院では対応してない。

その場合はもう1つのT病院に通院させることは相談済み。

この機会にT病院に渡りをつけておいてもいい。

 

chika05.hatenablog.com

 

調べたら、T病院なら血液内科も緩和ケア病棟もある。

今、父の腫瘍は痛みも何もないらしいけど…

わたしは不自然な延命は反対だけど、「親が痛みながら死ぬ」のは無理。

父がガン告知された2018年当初から、

「先生!緩和ケアは??」

と前のめりになり「まだ薬で抑えられる可能性もありますし…」と笑われた記憶。

 

救急病院は緩和ケアないし、この期にT病院に外来実績を作るべきか。

しかし誤嚥をまた起こせば、運ばれるのは救急だし、データ分散するのはリスキーか…。

本当に介護は決めかねることばかりで、頭が痛い。

 

 

訪看さん「娘さん、まったく気が休まる暇がないですね…。ところでお母さんの便通なんですけど」

父は父、母は母、介護や看護の担当が、待ったなしで全てをわたしへ報告して来る。

母は、排便困難問題を抱えてるんだった。

 

訪看さん「便がでてる最中も、排便してる感覚がわからないようで動いちゃうんですよね」

そうなんですよー。

リビングや廊下でオムツ脱いで排尿、排便してる最中も「排泄中の神経経路」が効かないから、動き回って被害甚大なんです〜!

 

わたし的には「だいぶ前からですが、何か?」な話。

が、母は今、訪看さんが浣腸してもまとまった便が出ない問題に直面中。

浣腸後に何回も分けて排便が起きるから、訪看さんとの契約時間を大幅にオーバー。ついに毎回実費加算にすることに。

 

腸の動きが悪くて、直腸に便が下りないんだよな。

となると、看護師さん的にも「お母さん、今また便が出てますよ~!だから、動かないでくださ~い!」と声をかけ続けることになる。

先週はわたしが仕事中に、新人さんが大惨事を引き起こしてた。

 

医療機関、介護サービス、訪問医、投薬、消化器系の不具合、リンパ節転移‥調べても調べても、動いても動いても、両親の変化に追いつかない。

 

 

父のご学友

認知症介護って、親が「人」として壊れていくのを「人型」に支えながら、増える労力に反比例して悪化し壊れ続けるさまを具に見ることになる。

病気療養ではなく老化だから、良くならないのは当たり前!

そう頭で理解してても、

「自分が犠牲を払って日々やってるコレに、価値があるのか?」

「この価値のないことに潰されそうな自分に、価値はあるのか?」

父母が身体や床、壁に塗りたくられた糞便を拭きとりながら、ホントに死にたくなる。

 

でも、母の親友から「かつての母がいかに有能で、愛されていたか」の話を聴くと気分が上がる。

なんでかな~?と不思議だったけど、多分、

「(今ではこうだけど)この人はすごく価値のある人だったんだ」

そう思える客観的な話を聴きたいんだろうな。と悟った最近。

 

 

父の場合は、そういう機会がなかった。

新型コロナ流行あたりから、父はガラケーも使えなくなってた。その後、

「俺はスマホが欲しい!」

と騒ぎだし、仕方なくわたしが機種変した。

父は教えてもスマホを操作できず、ガラケー時代からわたしが確認していた着歴も残らなくなって2年ほど。

携帯は入所を期に解約した。

PCメールはよく使ってた(コロナ以前)から、起動できればもう少し交流関係がわかるんだろうけど、ポンコツ過ぎて起動しないし、暇もないので現在は放置中。

 

 

ところが昨夜。

父と同郷で大学の学友&同じ学生寮で過ごした後輩男性が自宅に電話して来た。

ちなみに父は一応最高学府、母も女子大の最高学府卒業。

ご友人も同じ夫婦構成で、奥さんは母と同窓生。父母の結婚式にも来てくれていたらしい。

こういうインテリ層の高齢男性って昔話が長い。「間」も長い。

母が就寝後だったので、「父と同じ要点がわからない話術、久々だな〜」と、1時間も電話に付き合ってしまった。

 

 

ご友人「え!まさか認知症…!え、あの快活なお母さんも?」

いつの時代の父と母をイメージして驚いてるのか…(多分二十歳前後だろう)

ご友人いわく、父は学生寮で、

  • 非常に敬愛された存在だった
  • 慈愛に満ちていた
  • 母にベタぼれだった
  • 穏やかな優しい目で僕らを見守ってくれていた

後半2つは、介護サービス関係者からもよく言われる。

施設でも、

「お母さん来ますよ~って言うと、わたし達に見せないニヤーっとした顔で笑うんですよ」「お母さんのことをなんとも言えない優しい目で見るんですよ」

よく報告される。昔からそうなんだ。なるほど。

 

ご友人「いやぁ~でもあなたが面倒見てねぇ、大変なことです…。僕もとにかく!娘が怖いです!」

突然のカミングアウト。

ご友人「え?お父さんもそう言ってます?じゃあ同じですね。本当にね、娘は怖い!だから娘の話は聴こえないふりをすることにしてます」

父とそっくりだわ!

施設でも「お父さんが野菜残すから、娘さん今日来ますよ!って言うと食べるんですよ」なんて報告を受ける。

ご友人「今日、あなたに覚えてもらいたいのはね、娘が言うことが1番響くんだよ!だから娘はもっと優しくしてくれるといい!」

ご友人は同居ではなく、ご夫婦2人でしっかり暮らせてるらしいけど、別居でも娘さんのご苦労が偲ばれますわ…。

 

 

学生時代母と2人で登山に燃え、山小屋のみならずビバークまでしていた父へ「2人は山で結ばれたのかい?ビバークでキスしたのかい?」と寮で揶揄うと、

当時の父「アルピニストは山の上では結ばれない。山を下りてから結ばれるんだ」

・・・。

ご友人「この名言!僕は今でもよく覚えてますよ!」

名言??いやまぁ青春ですよね。ワンゲル部、学生寮学生運動、古き良き時代。

 

そんな話の合間に、GHQだとか、古き良き時代の日本の話だとか、高齢者を敬うべきだ理論とか…いちいち寄り道しつつ、

ご友人「それでその、お父さんの認知症とはどのような状態で…?」

え。それ聴いちゃう???

「家では。今の自分が歩けないことは記憶できないので、ベッドから降りて床に転倒を繰り返してましたね~」

その上で全裸になり、垂れ流し続けたわけだけども、さすがに言う気にならなかった。

 

そういえば、父の醜態は母の友人親戚には全部ぶちまけてる。でも父の親戚や友人には言えない。

母の醜態は…うん、やっぱり母の親戚友人には全部は言えないかもな。

ウチは両親共に弄便・不潔行為も激しいから、最低限の尊厳を守りたいのかもしれない。

だからわたしはこのブログにぶちまけざるを得ない。

 

ご友人「いやぁ会いたいなぁ。女房も奥さんに逢いたいと思いますよ…」

「他県で遠いと思いますが、もしよろしければ面会できますよ。ただ父が覚えてるかどうかは保証できませんけど…」

ご友人「え、そうですか?でも僕のことは覚えているんじゃないかなぁ」

うーむ。

ご友人「是非、あなたもお母さんも一緒に!女房連れて行きます!」

来てくれるなら喜んで‥。

 

ご友人「寮でね、お父さんが…なんだっけ、ほら、あれ、なんだっけ?お父さんが歌ったのよ。まだ流行する前にね。そのあとすごく流行した…」

「白百合」「思い出すのは」のフレーズが入る清純な歌。

とのことで、電話しながらスマホ検索したら、

小林旭!?」

ご友人「…そんなんだったかねぇ?とにかく僕の中ではね、あれはもう○○(父の名)さんの作詞作曲ですから」

歌い出すご友人。わかりません…。

 

この会話はすべて、通話10分頃の、

「じゃあ電話番号を教えるから、なにかあればすぐ相談してね」

と教えてくれようとした間の会話。

携番は聞いたけど、ご自宅の電話番号は市外局番まで言ったところで横道にそれるそれる…。結局、自宅番号はそのままスルーした(爆)

でも面白い人だった。父も家族じゃなければ「面白い人」だと思う。

 

…そういえば特養入居の際に、家族からの情報提供シートで、

「父は頭がいいこと、学歴を褒められると喜びます。あと若い女性に囲まれて、自分の冗談に和気あいあいと笑ってくれてるムードが好きです」「母のことが大好き」

的なことを長々書いた。

特養相談員さん「こんな詳細な家族情報、見たことないです」

と笑われたけど、施設ではそのようにして父を扱ってくれてる。だからご機嫌。

父に限らず、父と同じジャンルの高齢男性はみんな同じなのかもな。

 

 

今、母の排便コントロール問題が色々勃発してて、昨日も訪看さんと今後の体制変化を話したり、「今の介護」で手一杯だから、こうして記録しておかないとすぐ忘れてしまう。

でもこれを読み返せば、

「父がとても価値ある人間で、敬愛されていた」

ってこともすぐに思い出せる。

 

在宅時よりわたしは優しくなってるはずだけども、やっぱり「また深夜2時に裸になりまして」なんて連絡受ける度にイラッとするから…

ご友人「いいですかお嬢さん、とにかく娘は怖い!もっと優しくです!」

肝に銘じようと思う(笑)