特養から父の秋冬衣類を頼まれた。
持参しがてら明日も父と面会することに。その件で特養相談員Oさんと電話で話した。
Oさん「お父さん本当にお元気ですよ…あの危篤はなんだったんだっていう」
ホントそれな。
先週も兄と母と一緒に面会をしているが、6月12日に危篤宣告受けたとは思えないほど艶々してた。
誤嚥性肺炎、1度やってしまうと繰り返して亡くなる高齢者が実に多い。
だからわたしも、
すぐに肺炎を繰り返し、救急病院と施設を行き来し、療養型病院探しに奔走し、引っ越す展開かな…
と覚悟した。
でも8月2日の退院以来、1か月は無事に過ぎたもんね~。
施設のケアが良いこともあるし、担当医が「施設退院した高齢者がすぐに病院へ戻ってこないように」慎重な治療をしてくれたことが重なり、とてもラッキーなパターンなのかも。
油断するとダメージ大きいから、油断はしないけども。
※
先週も母をショートスティに送ったついでに、父と面会もしてきた。
今回は兄も参加。ショートと特養にその旨を伝え、自宅で母と3人で昼食を食べてから送迎車に乗り込んだ。
ずっと一緒に暮らして介護してたからか、施設・病院の面会で頻繁に会ってるからか、父はわたしと会っても全くシャキッとはしない。
母のことは大好きなんだろうけど、何せ結婚60年?緊張感には繋がらない。
だからわたしはつい「それが今の父」と思いがちだけど‥
父のレビー小体型認知症・前頭側頭葉型認知症は、母のアルツハイマー型とは異なり、意識明瞭な時も多い。
特に父は元々、男性がいると張り切るタイプ(多分ね)。
長男である兄と逢えてシャキッとしてたし、嬉しそうに大谷翔平の話で盛り上がっていた。
その後、父の車椅子を押し散歩に出た。
施設のそばに公園があり~あることにわたしは気づいてなかった~兄は重いリクライニング型車椅子を押し公園に向かう。
「え、マジ?マジで?」
母「わたし疲れた~。歩けない~」
施設敷地内で歩けなくなる母の手を繋ぎ、兄の背を見送る。
実は父の施設入所で妄想してたことがある。
面会行って母と父で散歩したり、時には外食したり‥そんな牧歌的な施設介護の妄想。
現実は、母は手を繋いでも転倒する歩行困難状態(遠出は車椅子)。
父も巨大なリクライニング車椅子だし、更には誤嚥性肺炎で外食も無理。
だから、父も食べられるアイスやプリンを持参し、施設ロビーで父母が食べる姿に満足してた。
が、車椅子を押し遠ざかる兄を母と見送りながら、
なるほど~わたし独りじゃ両親2人を1度に面倒見れないけど、ふたりいれば出来ることは広がるんだな…。
と感慨深かった。
在宅介護だろうが、施設介護だろうが、シングルで介護し続けてると視野狭窄になるよね〜
施設に戻ると、ロビー横にあるリハビリルームに案内すると言いだす父。
(いや、ここは施設内でリハビリ時間に利用するものであって突然家族連れて入ってはいけないのでは?)
介護施設慣れ&介護・医療のコロナ対策慣れしてるわたしは躊躇したけど、兄は父に言われるまま入っていく。
「あら~⚪︎⚪︎さん」リハビリスタッフさんにも、しっかり名前を覚えてもらってる父。
人数制限で、わたしと母はリハビリルーム内に入れなかったけど、父は兄にリハビリルームを案内し、器具でリハビリをやってみせると言ったそうな(いや、いきなりダメです)。
父は昔から、妙に自分のテリトリーを案内したがる。変わらない。
が、わたしだったら多分、
「ダメだよお父さん、今はお父さんの利用予定ない時間だから、コロナもあるし勝手にリハビリルームは入れないよ」
と切り捨ててた気がする。
介護をする上では、介護や介護施設、病院慣れしてる家族が必要。
でもそれが全てじゃないな〜としみじみ感じた。
今回は常々お世話になりまくりのショート相談員Tさんにも兄を紹介できたし、
「娘さん、ホント独りで大丈夫ですか?」
と心配し続けてくれてる施設の皆さんにも少し安心してもらえたかな。
ところで父の認知機能確認を兼ねて、
「お父さんこないだ危篤になったじゃん?え、覚えてないんだw」「ま、いいけど。こうゆーのあってもいいんじゃないかと思って」
- 母の面倒や生活は兄弟3人が仲良く看る。
- 父の資産は兄弟3人仲良く分割する。
的な遺言書っぽい文章を見せてみた。
実際介護はわたしが担うけど、父がもっとも理想とする文章じゃないと理解できないので(認知症のせいではなく、父の性格的に)。
父「うん。非常にいい。立派な遺言だ」
ニコニコする父。
「じゃ名前書いてみて」
しっかりと名前を書く父。
母のアルツハイマーと、父のレビー小体型認知症・前頭側頭葉型認知症の違いなのか、父は着衣脱・排せつまき散らしがなければ…そして不穏スイッチが入ってる時間じゃなければ…認知はマトモなんだよねぇ…。
その程度の判断力はあるのに、在宅介護中も施設介護中も、彼の口からわたしへ、
「お母さんを頼んだ」「お金は大丈夫か」「家は大丈夫か」
的な言葉が一切ないのが、微妙に解せなかった。
在宅介護中に「娘が全部やってるし、問題なさそう」と心配事は全て父の中で切り捨てたのかもしれない。
父本人を思えばハッピーなことだけど、わたしは19年の母の認知症診断からずっと、父にも一緒に母の認知症と向き合って欲しかったし、
「大丈夫か?無理してないか?」
と言って欲しかったんだと思う。
父はそもそもそういうことを言わない人だし、言われたとて「無理しとるわ!!!」とブチ切れる自分も見えるんだけどね。
「兄弟仲良く」の疑似遺言を見せた時の、父のニコニコした顔を見て、
父から言葉を貰うのではなく、父へ言葉を与える側になる覚悟が決まったな。
と思った。これは危篤の功名かなぁ。
一連を共にした兄と、元々の父…
「やっぱりお父さんは"兄弟仲良く"だな」「それが1番大事なポイントだね」
「リハビリルーム案内…お父さん昔からそういうところあるよね」「あるある~」
なんて小さなアルアルを共感し合えたのも大きい。
「両親は認知症で変わってしまったけども、まだ変わらない部分もあるよね~」
ってことを誰か…家族と共有したかったんだな。
ということで今日は父の87回目の誕生日。
無理な延命はしたくないけど、元気で艶々で生きるなら長生きしてほしい。と思えるのも、今の施設のおかげ。
だって1年前はこんなことしてたんだもんな(白目)…